2026年1月13日
令和8年は午年です 馬はいつ、どのようにして日本へ来たのか
1.はじめ
3世紀に書かれた魏志倭人伝では、日本には馬はいないと書かれています
ところが6世紀後半に築造された群馬県高崎市の前方後円墳「綿貫観音山古墳」の埴輪の復元像には沢山の馬がいます
山高帽子を被ったひとが先頭にいます 朝鮮半島から来たのです
尚群馬とは沢山の馬がいるという意味です
埴輪列を前から見た写真
山高帽子を被った人がいます→朝鮮人です
埴輪列を後から見た写真沢山の馬がいます
後方は綿貫観音山古墳(墳丘長97m)
2.航路
釜山からで福岡までは200㎞くらいです
しかも途中に大島、沖ノ島、壱岐、対馬があります
島伝で昼間舟をこぎ、夜は島影に泊まればいいのです
魏志倭人伝では水行20日とありますが、時速5㎞ぐらいで昼間だけの走行で五日位つくはずです
高度の航海術を持ちかつ対外交渉にもたけた「胸形君」一族がこの海路を支配し海路の安全を守るため沖ノ島(たごり姫)、大島(たぎつ姫)、本土(いちきしま姫)の三女神を祭神とする「宗像大社」を創建していました
沖ノ島 沖津宮
大島 中津宮
本土 辺津宮
3.舟
埴輪の舟
大きいな木を半割にし、中をくり抜き船底にし、周りに板をはりつけます
外洋には無理なので準構造船といいます
かいで漕でる様子
大きい舟では長さ12m、巾2m、18人乗りのものがあります
このような舟で馬を運んだのです
馬は蒙古馬で小さく、高さ1.2m~1.5mです
4.背景
百済は高句麗、新羅と戦っていましたので朝鮮半島は戦場となり馬 の飼育は出来ません。それで同盟国である日本に馬を運び飼育し朝鮮半島へ送っていたのです
百済と群馬は緯度的にも同じであり、気候、風土(関東平野)が似ていて馬の飼育に適していたせいかもしれません
大和政権にとっては関東は辺境であり、北の守りに彼ら(朝鮮人)を住まわせるのは都合が良かったのではないかと思います(善光寺(百済)、高麗神社(高句麗)はその名残です)
5.まとめ
百済王が倭王のため七支刀を作ったのは369年であり、馬は少なくとも四世紀前半には日本に運ばれ飼育されていたと思われます
ここで我々日本人は朝鮮半島(中国)の血が色濃く混じった民族と認識する必要があります
共生するには長い年月がかかったと思いますが、それは避けてはなりません